Ёрой Кумиучи Дзюцу

鎧組み討ち術

いまの世界は、目まぐるしく変化しています。21世紀は、まさに変革の時代になると思います。社会のすべてに変化が及ぶでしょう。そうして変化にも影響されないものの代表的なものが伝統文化です。日本武術もその一つです。私は10代のころから鎧組み討ち術を探し求めてきました。旅行や仕事で日本のすみずみまで出かけては、行く先々に鎧組み討ち術の伝承者が居ると訪ねて、一手ご教授ねがうのです。そうした伝承者の方は「私が死ぬと、この技は私といっしょに消えるのです。あなたが、つないでくれるのですねぇ」といいます。鎧組み討ち術は、いまから500年から300年前ごろまで、一子相伝で、親から子に伝えられた、豪の者にとっての“我が家の秘技”でした。江戸時代になってからの250年は戦が無い時代でもあり、鉄砲による戦術または剣術の時代で、鎧組み討ち術は用の無いものになって行きました。それでも、柔術として生き残り、明治の時代になってからは、そこから柔道へと発展したものの、柔道はスポーツになり、柔道とは別に合気道のように修養の道になったのは、剣術が剣道と居合道になったのと同じように、二つの道に分かれたのです。
鎧組み討ち術は、戦闘の混戦の中で組み討ちになってしまう場合と、組み付いて優位な態勢を作って相手の首を討ちとる場合など、相手の命を取るための戦闘術ですからルールなどありません。柔道はスポーツですから、いろいろなルールがあります。合気道は修養の道ですから相手を傷つけたり、人が見て見苦しいことはしてはいけないことになっています。そうした中で鎧組み討ち術は、時代の趨勢に合わないものになってしまったのですが、鎧組み討ち術こそが柔道や合気道の源流なのです。日本伝統の格闘武術なのです。
私は、昔の日本が戦国時代であったころの技を誰かに伝えて残したいとねがっています。私は、いま、80歳です。私が消えると、この鎧組み討ち術も消えてしまいます。私に、鎧組み討ち術を教えてくれた人たちも、誰かに伝えて残したいと願っていました。一子相伝の技ですから流派名もありません。技の名称も無いものがほとんどです。いま私は、私の号である丈山(JYOUZAN)を被せて“丈山流鎧組討術”としています。武者殺戮の技ですから危険防止などのルールなどもありません。稽古は約束稽古の繰り返しです。相手が一人なら、掛かりと応えになって繰り返し技を掛け、倒し、倒され、します。相手が複数ならば係りと応えをローテーションで行います。技を掛けられたら応えは、技に逆らうことをせずに倒れます。これは、怪我の防止と、上達のための基本原則です。格闘技術の基本ですから、立っている人間は、このようにすると立っていることができないという基本からはじまります。
鎧組み討ち術は柔術の源流ですから、あなたが修練する武術の中で、どのように応用するかはあなた次第です。ますますの精進を願っています。

丈山流鎧組討術 開祖 石黒丈山